3.大戦下での日系人の強制収容とは
【強制収容の実態】
1941年12月7日に真珠湾攻撃があり、1942年2月19日にルーズベルト大統領が署名した大統領令が発行されます。
そして、日本国籍を持つ者、アメリカ国籍を持つ者関係なく、全部まとめて「敵性外国人」と分類され、「キャンプ」と呼ばれる人里はなれた強制収容所に送り込まれ、日本人の預金は凍結されました。
戦争が始まった当時、アメリカ本土には約12万7000人もの日系人が住んでいましたが、その内9割を占める11万3798人が強制収容されました。。。
キャンプ(強制収容所)は、カルフォルニア州、アイダホ州、ワイオミング州、コロラド州、アリゾナ州、アーカンソー州などの人里離れた場所(15ヶ所)に作られ、その周りは鉄条網に囲まれ、武器を持った兵士に監視されていました。。。(日系人が収容されたキャンプ(強制収容所)の様子)
強制収容所が完成するまでの間、日系人達は近くの臨時収容所に押し込まれることになります。
しかし、その臨時収容所も名ばかりで、実際は競馬場の馬小屋が割り当てられ、馬糞の匂いが漂う馬小屋に何ヶ月も住まわされました。
家を突然追い出された日系人達は、手に持てるだけのものだけを所持することを許され、家財道具などは勿論持ち出すことは出来ませんでした。
当時のアメリカは、ドイツ・イタリアとも戦争をしていました。
しかし、ドイツ系、イタリア系のアメリカ人がまとめて収容されることはありませんでした。
フレッド・コレマツさんは、この事に関して特に強い反発を示しました。
つまり、日本人の強制収容には、明らかな人種差別があったのです。
(戦後、アイダホの収容所から我が家に戻った日本人一家。壁には「ジャップは出て行け」の文字が。。)
【アメリカ人を証明するために戦った第442連隊戦闘団】
第442連隊戦闘団という部隊をご存知でしょうか?アメリカ史上、最も多くの勲章を受けた部隊(第442連隊戦闘団)
この隊は、「アメリカ史上、最も多くの勲章を受けた部隊」です。
元々は、第100歩兵大隊と第442部隊(両方とも日系人の部隊)という別の部隊でしたが、合流して再編成されました。
2010年に『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍 – Live with Honor, Die with Dignity – 』というタイトルで映画化されたのでご存知の方もいると思います。
戦争が始まる前から軍隊に入っていた日系人は「敵性外国人」と分類されていたので、除隊させられます。
しかし、アメリカ生まれでアメリカ国籍をもつ日系人達は「我々はアメリカ人である」事を証明するために軍に志願しました。
その人たちを集め、第100歩兵大隊と第442部隊が編成されました。
しかし、その顔背格好から太平洋戦線に送り込まれることはなく、ヨーロッパの最前線に送られる事になります。
第442連隊戦闘団の話で一番有名なものは、先ほど紹介したドキュメンタリー映画の題材である「テキサス第141連隊第一大隊」の救出だと思います。
【第442連隊戦闘団の「テキサス第141連隊第一大隊」の救出ストーリー】
第442連隊戦闘団に対して、1944年10月26日、フランスボージュの森で突然命令が下ります。
それは「ドイツ軍に包囲された211名のテキサス第141連隊第一大隊を救出せよ!」という命令でした。
先行した2つの部隊が失敗した後、第442連隊戦闘団は救出に成功する。
しかし、白人211名を救うために422が出した代償は800名もの日系人の命でした
日系人と白人の命の重さの違いを、まざまざと見せ付けられた命令でした。。。
しかし、来れ以降日系人部隊の活躍がアメリカ本土でも大きく報道され、日系人に対するアメリカ国民の考え方も大きく変わっていきます。
日系人の人達は、自らの命で「自分達はアメリカ人である」という証明をしたのです。
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