TERUです。
日本と韓国は、個人レベルでは付き合いがいいというのが、僕の体験です。
海外MBA留学時代、いつも一緒に居たのは仲のいい韓国人でした。
彼とは、家族ぐるみの付き合いでもあり、本当の兄弟のような仲でした。
(今でも、もちろん付き合いは続いています)
しかし、国としては良好な関係とは言えません。。。
韓国が「何故反日なのか?」
それを知るには、まず朝鮮半島の歴史を知らなくてはいけません。
【関連記事:日韓関係①朝鮮半島の歴史を知れば、韓国の今が見えてくる】
シリーズ3部作の1作目の記事では、現代の日韓関係を見る上で、
一番の基礎となる「朝鮮半島の歴史」を、地政学的観点から見てきました。
今回は、朝鮮半島の歴史を更に踏み込んでいきます。
【目次】
1.日本と中国の貿易の歴史
2.豊臣家と朝鮮王朝(原因①)
3.徳川家と朝鮮王朝
4.明治政府と朝鮮王朝(原因②)
5.まとめ
6.韓国の焼肉文化の起源は「元」にあり
韓国の反日の起源を探るためには、
まず、日本と中国の関係から紐解いていかないといけません。。。
「日明貿易」という言葉は、日本史を専攻しなかった人でも、一度は耳にした事があると思います。
室町幕府と明の間で行われ、1404年足利義満と永楽帝の間で開始され、16世紀半ばまで行われた貿易の事です。
前回の記事でも書きましたが、当時の東アジア諸国と中国との貿易は
「形式的に中国の臣下になって朝貢すれば、充分な見返り(返礼品)を与えますよ」
という朝貢貿易の形を取っていました。
この貿易は、4代将軍足利義持が朝貢形式を嫌って、一時中断されました。
しかし、まもなく再開され1547年まで百数十年の間に18回、延べ50隻もの船が派遣されることになります。
この朝貢貿易は、日本に莫大な利益をもたらす事になります。
当時の貿易船は、「従属国から宗主国への朝貢」という形だったので、
★関税なし
★使節やその随行者である商人の滞在費など、一切の費用は、明朝の負担
★朝貢品にたいしては、賜与という名目で、価格以上の代価が支払われた
★携えてきた物資の交易すらみとめられたから、一回の渡行で、元本の五,六倍の利益があった
とされています。
日本の輸入品:銅銭、生糸、綿糸、織物、陶磁器、書籍(仏教経典)、香料など
※銅銭は洪武通宝、永楽通宝などで、貨幣が鋳造されなかった日本で広く流通する事になります。
このように、当時の日本(室町幕府)と中国王朝(明)の関係は、良好でした。
という事は、同じ従属国である「日本」と「朝鮮王朝」の関係も、良好でした。
1で述べた関係は崩れたのは、豊臣秀吉の登場によります。
※彼が残した功績は素晴らしいものが沢山ありますが、この朝鮮出兵だけはいただけませんね。。。
日本が、歴史上初めて”自ら攻めて”海外の国と戦争をしたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)です。(白村江の戦いは違います)
朝鮮半島は、ランドパワーの国です。
それは、宗主国である中国がそうであったために、地理的制約条件からそうならざるを得なかったのです。
そこで、シーパワーである日本軍(秀吉軍)が攻めてきて、その上武士とかいう彼らからしたら見たこともない屈強な男達が攻めてきたのですから、一溜まりもありません。
「文禄・慶長の役」の事を覚えてない方も居ると思いますので、簡単な復習を↓
日本の天下統一を果たした天下人秀吉は、大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げました。
(諸説ありますが、ここでは「大明帝国の征服を目指し」という説を取ります)
秀吉は、李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けます。
小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとしました。
明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断し、以後戦線は膠着状態になります。
双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将は撤退を画策。
秀吉の死により、秀吉軍は撤退。そして、未決着のまま終息することになります。
戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残すことになります。
朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得ない状況にまで追いやれました。
この文禄・慶長の役により、明は弱体化し清に攻め滅ぼされます。
その後、清は
①李氏朝鮮は清に服従すること
②明討伐の派遣軍3万の提供
を李氏朝鮮に要求します。
しかし李氏朝鮮は、漢民族でない清の要求を拒否します。
そして清軍12万の大軍で侵攻され、朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏することになります。
その結果、
①朝鮮は明と断交すること
②王子を人質に差し出すこと
③莫大な賠償金を支払う
などの屈辱的な講和条約を結ばされます。
その上、朝鮮王の仁祖は清の皇帝の前で『三跪九叩頭の礼』を行い、清に服従する誓いをさせられました。
1.「跪」の号令で跪き、
2.「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
3.「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
4.「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
5.「起」の号令で起立する。
これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」こととなります。
(満州民族である)清に屈辱的な服属をさせられた李氏朝鮮は、そのキッカケを作った秀吉を呪います。
「清への屈辱的な服従のキッカケをつくった秀吉」が、反日感情を生んだ1つ目の原因です。
そして、その豊臣家を滅ぼした徳川家。
李氏朝鮮からすれば、憎き豊臣家を滅ぼした「徳川家」とは仲良くなりたい。
なので、徳川家と李氏朝鮮の関係は、両国間の歴史上最も友好な関係となります。
江戸時代になってから、朝鮮通信使は復活し、新しい徳川将軍が襲職すると朝鮮から朝鮮通信使が来ていました。
※朝鮮通信使は、室町時代から続いていましたが豊臣家の時に中断されていました。
また、日本人漂流者に対しても朝鮮王朝は寛大な処置を行いました。
こんな話があります。
江戸時代には、大黒屋光太夫や中浜万次郎のようにロシアやアメリカに救助された日本人は帰国が保証されておらず、滞在が長期にわたりました。
しかし、正式な国交がある朝鮮に漂着した日本人は、充分な保護のもとで比較的短期間で帰国する事が出来ました。
寛永期には、両国で漂流民を送還する体制が整えられることになります。
その体制により、外国に漂着した者は、帰国後に他国への往来を禁じられて死亡時は幕府に届け出る必要があったが、朝鮮からの帰国者は緩和が進み、漂着前と同じ生活が送れるようになったと言います。
ここで、当時の世界の状況を見てみましょう。
当時の欧米各国は、東南アジアを植民地化していていました。
しかし、日本には攻めて来ませんでした。
鎖国をしていたから?
いえいえ!鎖国をしていても、欧米諸国の武力で倒せばよかったのに、それが出来ませんでした。
それは何故か?
理由① 当時の日本の鉄砲保有率は世界最高水準だった
理由② 武士という刀を持った屈強な侍達が居た
ために、スペインやオランダは攻めて来れなかったと言われています。
(これに関しては、当時の宣教師が手紙を多数残しています)
その結果、ヨーロッパ各国は日本との貿易だけは行ったわけです。
当時のヨーロッパ諸国は、世界を席巻していました。
「いつかは我々もやられてしまうかも知れない」
「そんな時、強い国と同盟を組んでいれば、何かあったときに日本は助けてくれる」
こんな考えも、もしかしたら李氏朝鮮にはあったのかも知れません。
(「朝鮮王朝は強い国につく」というのは、前回の記事でも書きました)
そんな徳川幕府もペリー来航をキッカケに、明治政府に潰されてしまいました。
李氏朝鮮の立場になって考えてみましょう。
「せっかく260年間続いていた江戸幕府との友好関係を潰してしまった明治政府は敵」
になるわけです。
その上、明治政府は世界各国に「鎖国は止めます。開国しましょう。国交開きましょう」という通知を出します。
その国交相手国の1つが「清」でした。
李氏朝鮮は、清の(形式上の)従属国でした。
その清と明治政府が正式に国交を結び、清の皇帝と明治天皇が対等の立場になってしまったのです。
清王朝と日本が台頭になると、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまいます。
ここでも、李氏朝鮮の立場で考えてみましょう。
「今まで徳川と対等にやってきたのに、”勝手に”徳川家を倒した明治政府とかいう連中が、「清」と対等の国交を結ぶ?ふざけるな!」
となるわけです。
ただでさえ、
『中華思想では漢民族考えが世界で一番正しく進んだ文明であり、漢民族以外は全てが野蛮人である』
という考えを持つ李氏朝鮮からしたら、清(満州族)と日本(夷狄)の国交は許し難いわけです。
「明治政府の成立」が、反日感情を生んだ2つめの原因です。
ここまでが、「日本の歴史と朝鮮王朝の関係」を見ていき、日朝関係が悪くなった2つの原因です。
豊臣秀吉:彼の出現により、結果日朝の関係は崩れた
徳川幕府:豊臣家を潰した江戸幕府と朝鮮の関係は、凄く良好だった
明治政府:徳川家を潰した明治政府と朝鮮の関係は、最悪になった。
最後に、韓国絡みの雑談を。
韓国の代表的な料理の一つと言えば、「焼肉」がありますね。
僕も韓国焼肉は大好きで、よく友人と韓国街に食べに行きます。
この焼肉文化も中国王朝の影響を受けています。
その王朝とは「元」です。
高麗統治下初頭は、仏教文化が発達したため、肉食が禁止になりました。
しかし13世紀の中頃に入ると、元との交流が活発になった為に元のために肉の食事を用意しないといけなくなりました。
その結果、殺生禁止の戒律を止めざるを得なくなります。
そして、高麗時代の末期には肉を食べることになっていきます。
この時にできた料理が「ソルロンタン」
「ソルロンタン」という言葉は、モンゴル語の「スュルル(肉を煮た汁)」から派生したと言われています。
開城(ケソン)では雪夜炙(ソルヤジョク)といって、牛肉を味付けしてから焼き、水につけては焼きを繰り返す方法がありました。
※あくまでも、これは一説です。
次回の記事では、
何故、韓国は反日なのか?シリーズの最終回として、
「日韓併合と竹島問題。現在の韓国の反日思想は誰が作ったか?」
を考察していきます。