こちらの動画をご覧下さい。(2分半位ですが、ハンカチ片手にご覧下さい)
この映画は2015年に公開された、日本とトルコの友好125周年を記念して製作された映画「海難1890」です。
ここ最近、トルコ国内でのクルドの過激化組織によるニュース(日経新聞12月12日)が起こっていますが、日本人は、このニュースをどのように見ているでしょうか?
トルコと言う国は、日本と
・地政学的にも
・人類学的にも(これに関しては諸説ありますが)
・言語的にも
・国際交流的にも
・歴史的にも
非常に関係が深い国です。
今回の記事では、上記の中でも
「エルトゥールル号を通じた、トルコと日本の国際交流」
に関して書きたいと思います。
【目次】
1.何故、日本は法人救助の飛行機を出せなかったのか?
2.トルコ航空機が、何故日本人のために飛んだのか?
3.トルコ航空機のパイロット、フライトアテンダントの話
4.エルトゥールル号事故とは?
僕は、DCに来てから9月16日には、トルコレストランに行くようにしています。
今年2016年は、在米トルコ大使館に直接メールを送り、ワシントンDC内にあるトルコレストランのリストを送ってもらいました。
こちらは、トルコ大使館から来たメールの返事です
↓↓↓
「エルトゥールル号を通じた、トルコと日本の国際交流」を、個人的に開催しているのです。
勿論、レストランではマネージャーやスタッフの人と『エルトゥールル号』の話をします。
僕の過去の経験上、ほぼ100%のトルコ人がエルトゥールル号の事を知っていますね。
(アメリカ生まれのトルコ人でも知っていました)
1.何故、日本は法人救助の飛行機を出せなかったのか?
(1985年当時の新聞)
一番上の動画にもありますが、イランイラク戦争当時の1985年3月19日、現地に住む日本人を救助したのはトルコ政府でした。
そして当時、日本政府は色々な事情があり、救出が出来ませんでした。
【当時のイラン、イラク事情】
1980年9月 9日 イラン・イラク戦争勃発
1985年3月 4日 イラク軍機、イランのアフワズを攻撃
3月12日 イラク軍機、テヘランの空爆を開始
3月17日 イラク軍「19日20時以降にイラン上空を戦争空域に指定し、安全を保障せず」と宣言
3月19日 期限切れ直前に、トルコ航空機、テヘランに渡来。日本人215名を救出。
【何故、日本は自国民を救出しなかったのか?】
日本国内では、外務省とJALが協議をしました(当時はANAは国際便が無かったので)。
そこで、JAL側は下記のような返答をしました。
「イランイラクの両国から安全の保証を取り付けてくれ。そうでなくては飛ぶことは出来ない」
それにより、JALは飛びませんでした。
そして、安保の問題から自衛隊機は「海外派兵に繋がる」という理由から飛ぶことが出来ず、テヘランに居る日本人は行き場を無くしました。。。
2.トルコ航空機だけが、何故日本人のために飛んだのか?
(トルコ航空機だけが、日本人救出に向かってくれた)
現地にいた日本人は、各国の飛行機・軍用機に乗せてもらえませんでした。
それは何故かと言うと、各国のコマーシャル便は全てキャンセルになり、自国の国民を運ぶための緊急便になったためです。
各国から来る軍用機も自国民を優先的に助けるので、日本人は乗せてもらえないという状況が続きました。。。
しかも、自衛隊は来れない
JALも飛行機を出してくれない。
現地の日本人は、まさに手も足も出ない状況に追い込まれていました。。。
【テヘランの日本を救った本当の立役者は「伊藤忠商事」】
政府が二の足を踏んでいたそんな中、とある民間企業が動きました!
それは、伊藤忠商事!!
伊藤忠イスタンブール事務所に、日本の伊藤忠本社から一本の電話がかかってきました。
「何とかトルコ政府を動かして、イラン在留邦人のために、トルコ航空に救援機をだしてもらってくれ!!」
その電話を受け取ったのは、伊藤忠イスタンブール事務所長の森永氏でした。
森永氏は
「多くの人の命がかかっているので、絶対に失敗は許されない」
「何としても成功させる糸口を見つけ出さなくては」
と、意を決して”とある場所に”電話を入れました。
その相手は、トルコのオザル首相でした。
森永氏とオザル氏は、長い間一緒に仕事を行い、親友とも呼べる仲だったようです
(オザル首相)
「トルコ人を救出するための飛行機とは別に、もう一機日本人用に飛行機を出してくれないだろうか?」
と依頼をした森永氏に対して、
最初は「OK」とは即答できなかったオザル首相でした。
しかし、熟考した後に、オザル首相は
「分かった!やってみよう!!」
という返事をくれ、トルコ航空に話をつけてくれたそうです。
【トルコ航空機、テヘランに到着】
そして、3月19日。
期限切れ直前にトルコ航空機がテヘランに到着。
日本人を優先にトルコ航空機に乗せることに対して、トルコ人の反対の気持ちが無かったとは言えないでしょう。
しかし、トルコの方々は
「良かった!これで日本人が助かるんだ!」
「日本人達は我々の祖先を助けてくれた。今度は我々の番だ!」
と言ってくれたそうです。
ここで、この航空機に乗っていた知られざるスタッフの話をしましょう
3.トルコ航空機のパイロット、フライトアテンダントの話
【危険を押してまでテヘランに来た、トルコ航空機のフライトアテンダント】
あるフライトアテンダントの女性は、上司から
「日本人を助けるために(戦火の)テヘランへ行ってくれるか?」
と聞かれ
『日本人を出来るチャンがきたと思いました。私はどうしても日本人を助けたかったんです。そして、大昔の恩を返したかったのです』
と思い、即答したそうです。
この大昔の恩とは「エルトゥールル号」の事です!!
しかも、一人の女性は当時妊婦さんでしたが、上司にも旦那にも内緒でこの任務に志願してくれたそうです。。。(泣)
トルコ航空によって命を救われた日本人215名の内のお一人である沼田凖一さんが、2010年にトルコと日本の交流イベントでトルコに行ったそうです。
その時に、沼田さんはそのフライトアテンダントさんと、当時お腹の中に居た娘さんとお会いになったそうです。
【オルハン・スヨルジュ機長の話】
日本人を救出してくれたオルハン・スヨルジュ機長は、2013年に残念ながらお亡くなりになっています。
彼の功績をたたえ、2014年に山口県下関市は、火の山公園トルコチューリップ園の愛称を「オルハン・スヨルジュ記念園」と命名し、4月11日に友好碑の除幕式を開きました。
下関出身の方に、この話をしたら残念ながら知らなかったのが残念でしたが。。。
【駐日トルコ大使の話】
経緯を知らない日本のマスコミに対し、駐日トルコ大使は短く答えたそうです。
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」
4.エルトゥールル号事故とは?
(エルトゥールル号)
駐日トルコ大使が話した「エルトゥールル号」とは何なのか?
「海難1890」を観た事がある人は、ご存知かもしれませんが、日本では残念ながらあまり知られていない話なので、概要を。
【エルトゥールル号事故の概要】
7月14日 オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が出航(1889年)
6月7日 エルトゥールル号、横浜に入港(1890年)
6月13日 特使オスマン・パシャ、海軍大佐アリー・ベイらが、明治天皇に拝謁、新書と勲章を奉呈
9月15日 エルトゥールル号、横浜を出航
9月16日 エルトゥールル号、和歌山県串本沖で難破、沈没。(乗組員587名が死亡。69名救出)
10月5日 エルトゥールル号の生存者をトルコに送還すべく、軍艦「比叡」「金剛」品川を出航。
12月27日 「比叡」「金剛」オスマン帝国着。生存者をトルコ側に引き渡す。
【事件当時の様子】
串本村の村民たちは、傷ついたトルコ人の血を海水で洗って包帯をしてやり、一人ずつ背負って断崖をよじ登って救助した。
そして、火をおこすのもままならない中、意識を失って冷たくなっているトルコ人たちを、自分の身体で温めてあげた。
さらに、台風により出漁できなかったために食料が少なく、生存者たちに食料を提供して、村から食料が無くなってしまった。
すると島民たちは、いざという時の為に貯えていた甘藷や鶏などまで提供して食糧の一切を与え、衣類も浴衣をある分だけ供出するなどして、69名のトルコ人を救った。
また、当時の日本では、天皇が「事故を凄く悲しんでおられる」という記事が新聞に載り、日本中から義捐金が集まった。
『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』として、5千円(現在価値で約1億円)もの義捐金が集まったそうです。
(当時の新聞)
【エルトゥールル号事故の事を、トルコ人はどう学ぶのか?】
この話はトルコに戻った生存者達から伝わり、今でもトルコの人達は知っています。
勿論、僕が行ったワシントンDCにあるトルコレストランの人もエルトゥールル号と日本の話は知っていました。
こういった経緯もあり、僕は毎年9月16日には、トルコ機による日本人救出の感謝の気持ちも込めて、トルコレストランに行くようにしています。
トルコの小学校の教科書では「われらの世界」という項目で、この事件と日本人に関して、このように紹介されているようです。
(トルコの教科書の日本語訳)
また、だいぶ前ですが「ビーバップ!ハイヒール」では、トルコ人のアンディさんという男性が出演し、こう話していました。
「エルトゥールル号遭難は学校で勉強した。だいたい高校で。トルコではことわざがある。『自分の歴史を知らない人には未来がない』
だから自分の国の歴史に何があったというのはちゃんと学校で勉強する。
そこで、トルコからめちゃ離れているのに日本という国が和歌山県で助けてくれたと知った」
「自分は海外に行くなら日本と思っていた。父には海外に行くことは反対された。が、どこに行くのかと聞かれ、日本と言ったらすぐOKが出た」
「イメージが良いのは、日本に対する感謝と尊敬。自動車メーカー、電気製品、ほとんど日本じゃないですか」
「トルコはサッカーがすごく好きだが、日本でのW杯の時(2002年)、日本とあたった。その時、もちろん勝ちたいが、でもどっかで敗れるんだったら日本に負けても仕方ないと。トルコ人の友だちとみんなで四ツ橋(大阪市西区)のトルコ料理店で『どっち応援する?』と。もちろんトルコだが、でも負けてもいいかと。違う国に負けるよりは悔しくない。在日トルコ人だけでなく、トルコに住んでいるトルコ人もそういう考え方の人が多い」
また地政学的にも、長きに渡りロシアと戦ってきたトルコは、日露戦争により日本がロシアに勝った事で更なる親近感を覚えたと言います。
※今回の記事は、この本から大部分を抜粋させて頂きました。
インターネットでは拾えない、門田さんの著書を是非とも手にとって見てください。
日本人は、他の国との関わりに関して無知な所があります。
ただ、無知は勉強で補えます!!