TERUです。
2月11日は、紀元節(今で言う「建国記念の日」)です。
以前、この記事で「建国記念の日」について書きました。
日本人としての基礎知識~「建国記念の日」について
今回は、「紀元節」について、さらに掘り下げた記事を書いてみました。
アメリカに来て感じたこと。
それは、「自国の歴史」を知らない事が、どれだけ無知と思われるか?
という事です。
それぞれの国には、歴史が、文化が、宗教があります。
今は、昔と違ってインターネットで色々な事を調べることが出来ます。
その中には、もちろん真偽がハッキリしない情報も沢山あります。
だからこそ、その情報を正しく理解・取捨選択して、活用する必要があります。
日本の歴史に関してもそうです。
アマゾンで歴史のテーマで調べると、僕が日本に住んでいたときよりも、
日本の歴史に関する本が沢山出版されています。
今、日本では百田尚樹氏の「日本国紀」が売れていると聞き、
早速日本から取り寄せ、読みました。
「日本国紀」に関する僕の感想は・・・
日本の歴史を否定的に見る人も、肯定的に見る人も、そのどちらでもない人も、俯瞰的な目線で見てみるべき本かなと。
こういう類の本は、「中立な立場で俯瞰して読む」という視点で読むことが大事です。
ただ、ネット上で日本国紀を批判する一部の方が、
書店への不買運動などを拡散しているとのことですが、
これはどうかな??と。
もし批判したいのであれば
「日本国紀に異論あり!」みたいな形で本を書くべきかな~、
と個人的には思いました。
さて、本題に入りましょう。
「紀元節」
についてです。
今回の記事では、
1.紀元節の基礎情報
2.紀元節は、いつから祝っているのか?
3.明治時代の紀元節
について、まとめていきます。
紀元節は、日本書紀が伝える「神武天皇」即位の日に基づいて制定された祝日です。
日本書紀には、「辛酉(しんゆう)年、春正月、庚辰(かのえたつ)朔」との記載があります。
ここに出て来る「辛酉」や「庚辰」という言葉は、あまり見覚えが無いと思います。
そこで、まずはこの言葉の由来(干支)を説明しましょう。
古代中国で使われていた暦(干支による紀年法)
干支とは、十干と十二支のことです。
※十干=10の漢字(甲乙丙定・・・)
※十二支=12の漢字(子丑寅卯・・)
それぞれの漢字を組み合わせて、暦を作っていきます。
1年目は甲と子の組み合わせ。
2年目は乙と丑の組み合わせ。
3年目は・・・
という風に組み合わせてきます。
下記は、各組み合わせを表にしたものです
参照:干支紀法
このように組み合わせていくと、当たり前ですが十二支の方が2つ余りますよね?
そうしたら、今度は
「十干は頭に戻って、十二支の漢字と組み合わさっていく」
ことになります。
【干支の豆知識① 還暦の由来】
こうやって、十干と十二支をペアにしていくと、、、
10と12の最小公倍数である60が一区切りになります。
つまり60年たつと最初の「甲と子」に戻ります。
60年で暦が「元にもどる」(=還)。
だから、60歳って還暦なんです。(知ってました?)
【干支の豆知識② 甲子園】
甲子園球場が完成したのは1924年
1924年は「甲子の年」
甲と子は10進法でも12進法でも、はじめの数字(文字)で、昔からたいへん良い年と信じられている。
そこで縁起がいいということで「甲子園」と命名されました。
暦が60年で一周するというのは理解できたと思います。
日本書紀に書かれている「辛酉」も60年で一周するという事ですよね。
では、この辛酉は、いつの辛酉なのか?
明治政府は紀元節の日付を決めるために、当時選りすぐりの学者先生を集め、議論したそうです。
その結果、神武天皇が即位した辛酉の年は、西暦で言うと紀元前660年である。
という結論になりました。
本当に紀元前660年なのか?に関しては、下記サイトに詳しく書いてありましたので、参考にどうぞ。
神武元年=BC660年の確認
辛酉(しんゆう)年=紀元前660年と判明しました。
次は、何月何日なのか?です。
「春正月 庚辰朔」とは「正月(1月)の庚辰の日が新月(=その月の最初の日)である」という意味です。
太陽暦で、立春は正月。
その1日は、立春後の新月の日なので、太陽暦に換算すると、、、、
2月11日となるのです。
本当にそうなのか???
を天文学で計算したサイトがあったので、紹介します。
参考にどうぞ。
日本書紀に書かれている神武天皇の即位の日は天文学で計算するとBC660年2月11日と特定できる
こうして、紀元節=紀元前660年2月11日である。
と、明治5年(1872年)に決まりました。
紀元節の由来については、簡単にですが説明しました。
ここで、素朴な疑問が残ります。
日本人は、昔から紀元節をお祝いしていたのか?
です。
日本書紀が編纂されたのは、720年。時代で言うと奈良時代。
奈良時代から、日本人は紀元節を祝ってきたのでしょうか?
僕が調べた限りでは、紀元節を祝い始めたのは、明治5年(1872年)です。
つまり、江戸時代までは紀元節を「建国記念の日」としては盛大に祝っていなかったようです。
この事について、某有名予備校の茂木誠先生は、著書の中でこう話しています。
それが、この明治5年になって、西洋から伝わった太陽暦を使う事となった。
おそらく「西洋の蛮族どもが、わが神国日本に対してキリスト教の暦を押し付けてきた」という反発があったのでしょう。
暦を押し付けられたのは致しかたないにしても、せめてそこで、イエス・キリストの生誕より古い、もっと権威のある紀元は無いか・・・と考えたのでしょう”
(イエス・キリストと神武天皇、茂木誠著、ヒカルランド出版)
「蛮族ども」という言葉は言い過ぎにしても(笑)、、、
明治時代を作った男達の欧米への留学・視察の経験も想像すると、
こういう風に考えたのかもしれないなぁ~、と僕も思います。
明治5年に、紀元節が決まりました。
では、明治政府はどのように、紀元節を国民に浸透させ、お祝いさせるようにしたのでしょうか?
当時の人達(江戸時代から生きている人達)からしたら、
「え?紀元節?それ何ですの?」
「神武天皇の即位日?ほほう」
って感じだったと思います。
この時代のアジア諸国は、欧米列強の侵略によりどんどん植民地となって、あらゆるものを搾取されていました。
その状況を目の当たりにしていた当時の明治政府高官達は、教育から変えていくことを考えたのだと思います。
鎖国平和ボケした日本国民を教育していったのです。
そうしないと、各国に結ばされた不平等条約改正のための準備も出来ませんし、他のアジア諸国同様に欧米諸国の植民地となってしまうからです。
教育の変化の一部が、教科書です。
小学校の教科書に「紀元節」を載せて、小さい子供に教えていきます。
もし、これを「洗脳だ!けしからん!」と批判する人が居るとしたら、現代のマスコミや教育機関が行っていることはどうなのでしょうか?と言ってあげたい(笑)
また、
「2月11日は、神武天皇陛下の御即位の日ですから、日の丸を掲げましょう」
というキャンペーンも行いました。
こうして、日本国民の間に紀元節をお祝いする習慣が広がっていきました。
そして、時は過ぎ昭和15年(西暦1940年)
この年は神武天皇御即位から、2600年に当たる日でした。
その日の新聞を見てみましょう。
【晴の紀元二千六百年式典】
【両陛下臨御、輝く盛儀 宮城外苑に漲る赤誠】
【聖なる歴史の一瞬!荘厳胸打つ式典拝観記】
今、こんなタイトルの記事を載せたら、〇日新聞なんて発狂しそうですよね!!
なんて思ったら、この記事は朝〇新聞でしたwwww
戦後、占領軍に擦り寄るまでは、こういう記事書いていたんですね~~
【零戦マメ知識】
旧日本海軍の軍用機として屈指の知名度を有する零式艦上戦闘機、通称「零戦」は、
昭和15年(西暦1940年)に制式採用された機体です。
昭和15年=皇紀2600年
下ひとケタから「零式」と命名されました。
※ワシントンDCの国立航空宇宙博物館には、本物の零戦が展示されています。
このようにして、敗戦後占領軍の支配下に置かれるまでは、紀元節を祝っていました。
戦後、占領軍は神道排除を理由に、
「たとえ国会で紀元節が承認されても、これを許可することはできない」
として、2月11日の祭日を許しませんでした。
以上が、紀元節に関する(すごくザックリですが)まとめになります。
僕は、この記事を通じて、
・占領軍はひどいことをした
・神武天皇は存在する
・明治政府は正しかった
ということを言いたいわけではありません。
そうではなく、
「何故、紀元節と概念が生まれたのか?その背景にある歴史とは?思惑とは?」
といった事を知っていくことの方が大事だと思うからです。
歴史とは、究極の結果論です。
だから、歴史を学んで次に活かしていくべきなのです。
(これは、MBA時代に教授から何度も言われた事です)
また、この記事(世界の建国記念日、独立記念日について調べてみた)の最後でも書きましたが、
各国の歴史も知り、その事を話題にすると話は盛り上がります。
また、彼らも「自国の事をこんなに知ってくれている!」って嬉しくなって、日本のことも聞いてくれます。
その時に、自国の事を説明できる人間は、敬意を持って迎えられます。
「海外に出たい!」と思っている人は、これくらいの事は知っておいてほしいですね
今回の記事が、参考になれば幸いです。