TERUです。
先日、米国の首都ワシントンD.C.からポトマック川を渡ってすぐの
バージニア州アーリントンにある海兵隊戦争記念碑に行ってきました。
この記念碑には、こちらの有名な像があります。
僕は、ワシントンDCに引っ越してから、
実に4年もの間、このブロンズ像を観に行けませんでした。
それは、
ミーハーな気分で、このブロンズ像を観るのではなく、
きちんと硫黄島の戦いの歴史を学んでから行こう!
と思っていたからです。
数年間に、自分の為に時間を使う余裕が出てきて
日本の歴史を、色々な文献や一次資料で学んだり
英語の文献なども調べる時間が出来ました。
そうして、やっと海兵隊戦争記念碑を訪れる事ができました。
(その時に、ちょうど友人が日本から来ていたというタイミングも重なりました)
そして、今日が8月15日ということもあり、
日本の大東亜戦争時の歴史を考える上でも
非常に大事な「硫黄島での戦い」の事を、(自分なりに調べた事を中心に)記事を書いてみました。
また、先にお伝えしておきたい事は、
・僕は、戦争を美化しているわけではないし
・アメリカ兵がどうだった。とか
・日本兵はどうだった。とか
の話をしたいわけでもない。
という事です。
これを念頭に、読んで頂ければ幸いです。
※僕が記載した数字、情報などに間違いがあれば、御指摘下さい。
目次
1.硫黄島についての基本情報
2.当時の日米両軍にとっての硫黄島とは?
3.硫黄島での戦い(概要)
4.海兵隊戦争記念碑のブロンズ像
5.まとめ
補足:アメリカ軍の爆撃でも、日本兵は何故生き残ることが出来たのか?
硫黄島の写真(wikipedia~2016年12月15日撮影の35枚より合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。より)
硫黄島は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東京から南に約1200km、全長7kmの小さな島です。
硫黄島には、自衛隊(海上自衛隊と航空自衛隊)の「硫黄島航空基地」があります。
島全体が自衛隊の基地であるため、東京都と自衛隊の許可がないと上陸することはできません。
民間人の上陸許可は、
1.基地の保全改築に伴う建設関係者
2.火山活動・気象観測のための学術調査員
3.旧島民や遺族・硫黄島協会などによる慰霊や戦史研究者
4.「硫黄島の戦い」の戦没者の遺骨収集・本土帰還事業の関係者
に限られています
※事故や遭難による緊急避難での上陸は、除かれているようです。
1945年2月19日~3月26日の36日間、
この小さな島(硫黄島)で、死闘が繰り広げられました。
【硫黄島の位置】
まず、こちらの地図をご覧下さい
・赤い点が硫黄島
・青い〇がサイパン
です。
【当時の米軍の動き】
1944年夏:マリアナ諸島を攻略
1944年11月以降:マリアナ諸島のサイパンからの、日本本土空襲を本格化させる
※何故、アメリカはマリアナ諸島を攻略したのか?
元々、B29による日本空襲は中国の成都からやっていました。
ただ、成都は中国内陸部(奥地)だったので、燃料の輸送が大変でした。
そこで、1944年夏にマリアナ諸島を攻略。
マリアナ諸島であれば、タンカーによる燃料搬入が可能になります。
その結果、同年11月以降から、日本本土への空襲が本格化しました。
【日本にとっての硫黄島とは?】
日本軍にとっての、小笠原諸島の役割とは?
サイパンから日本本土へ向かうB-29を見張り、無線電信で報告する防空監視所の監視拠点でした。
特に、硫黄島は防空監視所として最重要地点でした。
また、日本軍の爆撃機は、硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるアメリカ軍の飛行場を急襲。
飛行場で駐機中のB-29に損害を与えていました。
日本にとっては、
『硫黄島を失う事=アメリカ軍の日本本土への侵攻=一般市民への戦禍が及ぶ』
という意味でも、大変重要な島でした。
【アメリカにとっての硫黄島】
一方、アメリカにとっての硫黄島とは、どんな存在だったのでしょうか?
それを知る為に、当時のアメリカ軍が抱えていた問題点を整理してみましょう。
【問題点1:飛行距離】
爆撃機の飛行距離(サイパン島-東京)=往復4700km
「硫黄島を避けて跳ぶ=飛行ロスが高い」という事を意味しました。
【問題点2:燃料と爆薬】
爆撃機の飛行距離は5230km(B-29)でしたが、
その距離を飛ぶには、大量の燃料が必要。
そのために、搭載できる爆薬の量を減らさないといけなかった。
つまり、中継基地があれば、もっと爆弾を搭載できる。という事でした。
【問題点3:爆撃機の着陸上】
爆撃機が
・被弾による損傷を受けた場合
・故障、爆撃機の燃料不足の場合
サイパン島に戻るまでに、太平洋に墜落するしかなかった。
その為の中間着陸地が必要でした。
【問題点4:戦闘機の飛行距離】
爆撃機をする戦闘機は「サイパンー東京間」の距離を飛べなかった。
爆撃機は戦闘機の護衛なしで飛ばないといけなかった。
その為に、戦闘機の基地が必要でした。
【問題点5:日本軍による攻撃】
日本軍の爆撃機は、硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるアメリカ軍の飛行場を急襲していた。
実際に、アメリカ軍は被害を受けていました。
上記の5つの問題点に加えて・・・
【硫黄島の地形】
硫黄島は、全体的に平坦だったために、
滑走路を作るのに最適な地形でした。
太平洋を、島伝いに進軍していたアメリカ軍にとって
硫黄島は非常に大事な場所でした。
上記のような理由から、、、
アメリカ統合参謀本部は、
『硫黄島=日本本土侵攻のための重要な要所』
として、硫黄島の占領を決定しました。
硫黄島での戦いに関して詳しく調べたい方は、ネットや書籍で調べてみて下さい。
ここでは、概要だけを(極端に短く)書こうと思います。
【硫黄島の戦いにおける日本軍の兵隊数】
日本兵の数は、13,586名。
彼らに与えられた役割とは?
× 勝つ事
〇(なるべく長い間)敗けない事
【硫黄島におけるアメリカ軍の兵隊数】
硫黄島に上陸してくるアメリカ兵の数は、約6万人。
さらに後方部隊は、約10万人。
彼らに与えられた役割とは?
・数日間で硫黄島を占領する。
・硫黄島を足がかりに日本本土侵攻を行う。
1944年12月8日
アメリカ軍は、過去最大の空爆と艦砲射撃を行う。
(74日間連続で、計6800トンを投下)
1945年2月19日(午前9:02)
アメリカ軍が硫黄島に上陸
1945年2月19日(午前10時過ぎ)
日本軍が、アメリカ軍へ攻撃を開始
上陸したアメリカ兵は、3時間半もの間、砂浜に釘付けにされました。
1945年2月21日
木更津基地から爆撃機20機が飛び立つ。
空母17、護衛空母11、戦艦15、重巡艦8のアメリカ軍への攻撃を仕掛ける。
1945年2月22日
アメリカ軍による擂鉢山への集中砲撃
(約3万発)
1945年3月23日
擂鉢山に、星条旗が掲げられた。
1945年3月27日(早朝)
硫黄島の指揮官、栗林忠道中将が自決
アメリカ軍は、当初
「5日もあれば、硫黄島は攻略できる」
と考えていました。
しかし、アメリカ軍が硫黄島を完全占領したのは、
上陸から実に36日後でした
以上が、凄く省略した形での硫黄島の戦いの流れになります。
硫黄島における日米兵の死者、負傷者の数は
日本兵
戦死者:1万9900名
戦傷者:1033名
アメリカ兵
戦死者:6821名
戦傷者:2万1865名
にも及びます。
日本とアメリカの戦いにおいて、
アメリカが攻勢に転じてから、
「米軍兵被害>日本兵被害」
となった唯一の戦場が、硫黄島です。
硫黄島の戦いは、アメリカで長い間語り継がれ、
アーリントン墓地横の海兵隊戦争記念碑には、
硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てた兵士のブロンズ像が
建立されています。
また、硫黄島での戦いは、アメリカ軍だけではなく
連合軍の間で記憶に残る戦いとなりました。
こういう記事を書くことは、賛否を生むという事は理解しています。
でも、僕はアメリカに来て
「自国の歴史を知らないこと=どんなに学歴があっても、恥ずかしいこと」
ということを、何度も経験しました。
右とか左とかいう話ではなく、
人として、自国の歴史は知っておくべきだと、アメリカ10年以上の生活で痛感する場面が沢山ありました。
これからの社会においては、様々な国の人と色々な話題をする機会が増えると思います。
その時に、自虐史観の歴史を話すと、他の国の人からは「???」という顔をされます。
(日本のお隣の3国の一部の方々は別ですが)
僕は、実際アメリカ大学院留学中に、今のような知識を持ち合わせていませんでした。
この時代の戦争の話をしたときに、東南アジアの学生から、
「なんで、そんなに自分の国の歴史を知らないの???」
と不思議がられました。
日本だと、こういった内容の議論は避けられがちですよね。
日本だと、議論というよりも思想のぶつかり合い、感情論のぶつかり合いで終わってしまい、
お互いが折り合わずに終わってしまいます。
それは、議論ではありません。
まずは、自分で出来る限りのことを調べる。
そして、他の人との議論を重ね、自分なりの意見・考えを作り上げていく。
その時に大事な事は、
「自分と両極端の意見の人の意見を知ること』
です。
自分と同じ意見をかき集めても、自分勝手な意見・考えになるだけです。
両極端の人の意見を知ることで、相手を論破(論破する必要もないですがw)する糸口も見えてきますし、
そこから、新しい考えがひらめく事が多々あります。
「自分なりの意見を持つ事」
これこそが、これからの社会において、非常に大事なことだと僕は思います。
アメリカ軍が、74日間連続で、計6800トンを投下したにも関わらず、
日本兵は生き残っていました。
その理由は、栗林忠道中将の指示にありました。
軍人・軍属を除く民間人全員(約1000人)の疎開が完了した後、
指揮官(栗林忠道中将)は、島の全面的な要塞化を行いました。
※要塞化とは?
・陣地を地下に作る(蟻の巣のようなイメージです)
・後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ
また、
工事の遅れを無くすため、上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止め、
最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視。
2万1000人の全将兵と顔を合わせました。
勿論、あまりの辛さに作業を抜け出す兵、病死者、自殺者も続出しました。
(これを書いておかないと、『強制的に工事をやらせた』等のコメントを書かれそうなので)
そして、
硫黄島は、30℃から50℃の地熱にさらされ、地中からは硫黄ガスが噴出す島です。
そのため、作業は5~10分交代。
この死ぬ思いの作業により、
米軍上陸までの8ヶ月間で、全長7kmの島の地下に
「26kmにも及ぶ洞窟陣地」を作り上げました。
この島中に張り巡らされた穴から、日本兵は反撃をしました。
日本兵の思わぬ攻撃を恐れ、
日本兵が作った穴と言う穴に
・手榴弾を投げ込み
・ガソリンを流し、火をつけ
・火炎放射器で、地下壕を焼き尽くしました
彼らの一番の目的は、「勝つことではなく、(なるべく長い間)敗けない事」だったのです。
こういう歴史も、日本人としての基礎知識として、学校でも教えるべきではないでしょうか?
ワシントンDC界隈に来た際には、是非ともアーリントンにある海兵隊戦争記念碑に行ってみて下さい。
・本当に自分がしたい事は何?
・自分らしく生きたい!
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